基本、新書。

新書・選書・学術文庫の魅力を伝えたい、フレイの読書ブログ。

久野愛著『視覚化する味覚──食を彩る資本主義』食は中身より外見重視?

今回紹介する新書

レビュー

食物と視覚の関係を研究する感覚史を解説する一冊。

 

150年前の絵画に描かれたバナナには、表面が黄色いものと赤いものがあります。現代の私たちは、バナナと言えば黄色であり、逆に黄色でないバナナは「不自然」で美味しくなさそうに思うでしょう。しかし、本来バナナには、自然なものとして赤と黄色の2種類が存在しました。にもかかわらず、資本主義の潮流の中で、赤いバナナは「自然」でないものとして淘汰されていった歴史があるのです。

 

トマトは赤色。オレンジはオレンジ色。グリーンピースは緑色。私たちは身の回りに食品について、「自然」だと考える色をある程度決めています。そして、その色が綺麗に現れている食品を、私たちは「美味しそう」だと思い、手に取る傾向にあります。しかし、発色の綺麗なそれらの野菜や果物は、本当の意味で自然な色をしているのでしょうか?

 

少々見た目が悪くても味の良い食品はいくつもあるはずですが、何故か「色が良い=味が良い」と決めつけてしまう私たち。食における視覚の重要性は、大量生産・大量消費の時代の到来を境に、ますます増してきました。

 

かつて見た目に関係なく美味しいオレンジを生産していたフロリダ州は、味ではなく、綺麗なオレンジ色という視覚的特徴を宣伝する広告を打ち出した、カリフォルニア産のオレンジとの競争に敗れました。そこで、見た目を弄って「自然」なオレンジ色を「人工」的に作り出すべく、着色料の開発に勤しむようになります。

 

私たちは「自然」食品、「自然」栽培といった単語を根拠なくポジティブに捉える傾向があり、それが本来の自然と大きく隔たっていても、あまり問題にはしません。綺麗な黄色をしたバナナ、綺麗なオレンジ色をしたオレンジは、たとえ作られたものであったとしても、「自然」で「美味しそう」な果物だと考える消費者の手に渡っていきます。

 

21世紀に入り、着色料が健康にもたらす被害や、発色の良すぎる食品への警戒心が多くの人に芽生えるようになりました。さらには、見た目に少々問題があるものの、味は遜色ない食品をワケあり品として消費するようにもなりました。また、TwitterInstagramなどを始めとした最近のSNSでは、「自然」とはかけ離れた食が「バズる」、「映える」傾向にあり、食をめぐる消費も多様化の様相を見せています。

高田貫太著『海の向こうから見た倭国』朝鮮半島の考古学が描き出す、倭国のもう一つの姿。

今回紹介する新書

レビュー

朝鮮半島の情勢を読み解くことで、日本古代史を多角的に俯瞰する1冊。

 

よく高校までの日本史においては、「朝鮮半島から渡来人がやってきて中国の進んだ文化を取り入れた」などと簡単に語られることの多い古代外交。しかし、果たして航海のリスクが非常に高かったこの時代に、本当に先進文化を伝えたいという善意だけで人々は海を渡ってきたものなのでしょうか?まるで倭だけが一方的に恩恵を受けたような印象を受けますが、朝鮮半島側も倭と結ぶメリットがなければ、このような交流は成立しなかったと思われます。

 

日本列島において倭王権の中心は(基本的に)1つですが、朝鮮半島には高句麗百済新羅加耶諸国など、様々な勢力が鎬を削っていました。その中で、「倭と関係を結んでいる」という事実は、自らの力を周辺社会に誇示するために重要だったのです。

 

もちろん倭王権の勢力も圧倒的だったわけではありません。高校日本史では、百済との良好な関係を続けていた倭王権に対し、「磐井」が新羅と結んで反乱を起こしたことが語られます。しかしこの反乱は、そもそも新羅側が倭王権の中で「磐井」が敵対勢力であることを見抜いていなければ起こりえません。遠い島国の政治情勢を、ここまで正確に把握しているのは驚くべき事実ですが、それだけ活発な交流が両地域で行われていたことを物語っています。

 

国内で見つかる甲冑などの半島産の供物。逆に朝鮮半島で見つかる前方後円墳や須恵器。発掘調査の進展で明らかになるのは、1500年前にも活発に海を渡っていた、多くの倭人朝鮮人の姿です。

大津透著『律令国家と隋唐文明』「日本」や「天皇」の成立に寄与した、膨大な人々の努力。

今回紹介する新書

レビュー

バラバラだった日本を一つにまとめた立役者「律令制度」の秘密に迫る1冊。

 

古代日本は、中国に遜り、中国を丸パクリすることしか生きられない未開の後進国のような印象を受けます。しかし、隋唐の諸制度は日本の実情に沿う形で導入されたため、日本と中国の律令国家には大きな違いが見られます。大宝・養老律令の施行は天皇制の開始と結び付けられる場合も多いですが、実はこれらの律令には天皇制が規定されていません。この時代、天皇は宗教的・神話的存在であったため、天皇について律令で何かを規定することはタブー視されていたのかもしれません。また、唐に倣ったとされる官僚制も、事実上の貴族による世襲制と化していました。律令国家と言っても、日本の古い習俗をそう簡単に拭い去ることは難しかったのでしょう。

 

律令国家の進展は、鑑真と吉備真備、そして大勢の遣唐使の活躍抜きには語れません。戒律をもたらした鑑真、礼をもたらした吉備真備は、命懸けで何度も海を渡り、日本の国づくりに寄与しました。遣唐使によって都城制の最新知識がもたらされた結果、わずか十数年で藤原京を捨てて平城京の造営を開始したという話も興味深いものがあります。奈良~平安初期に行われた、唐をモデルとした社会の構築は、「日本」という国号や漢字二字の「○○天皇」という諡号など、現代社会にまで影響を与えています。

 

百済の亡命貴族を受け入れて開始した律令国家の形成は、"お雇い外国人"を受けいれて成功した明治維新とも重なります。多くの外国人の力によって醸成された日本国と日本人。その子孫として今を生きる私たちは、果たして外国人を社会の一員として寛容に受け入れているでしょうか。

森枝卓士著『カレーライスと日本人』インド産なのに、レストランだと洋食扱い?いまや日本の国民食「カレー」の秘密に迫る。

今回紹介する文庫

  • 出版社:講談社
  • 発売日:2015/8/11

レビュー

カレーの不思議と歴史が詰まったエッセイ。

 

カレーの起源はインドにあることはよく知られていますが、私たちが食べているカレーとインドのカレーは全く別物のように思えます。私たちがカレーと言われて想像するのは、「カレールー」や「カレー粉」をベースに作られたとろみのあるソースですが、インドのカレーはスパイスを調合して作られるスープ状のものです。そもそも「カレー粉」や「カレールー」などというものは、インドのスーパーでは見つけることが困難だと言われています。

 

日本人にとってのカレーは、明治維新の頃に「洋食」として受け入れられたのが始まりです。そのため、直接の起源はイギリスにあると言ってもいいかもしれません。インドで生まれたものがイギリスに伝わり、それが日本へと伝わる。カレーライスの船旅は壮大です。

 

日本人にとってのカレーは今や国民食です。しかし、「和食」だとはあまり思えません。味噌汁や寿司、天ぷらは「和食」だと思う人が多いですが、これらも元はと言えば外から来たものです。日本に明治維新より前に来たか、後に来たかで判断されているのでしょうか。明確な「和食」の定義は曖昧であり、「和食」が体現する日本の食文化はほんの一部であるようにも思えます。

 

昔から何でもありな日本の食文化。ひとつの皿の上に「ご飯」という「和」と、「カレー」という「洋」が共存するカレーライスは、その特徴がよく現れた料理です。

赤瀬浩著『長崎丸山遊廓──江戸時代のワンダーランド』「小さな大都市」長崎を潤し、活気をもたらした、遊女たちの記憶。

今回紹介する新書

レビュー

大阪、吉原と並び三大遊廓と称されて賑わった長崎の丸山遊廓。しかしその様相は、他の遊廓と大きく異なっていました。一般的に江戸時代の遊女と言えば、家が困窮し、生活苦のあまりに身を売らざるを得なくなった女性とされ、下層の者として軽蔑する人が後を絶ちませんでした(…まあ、そういう人も遊廓自体の利用はするんですが…)。

 

しかし、丸山遊廓の遊女は、「小さな大都市」である長崎全体を潤すための貴重な稼ぎ頭として、その家族だけでなく、街が総力をあげて保護する対象でした。彼女らは、自分が遊女であることを誇りに思っていたといいます。くんちをはじめとした諸々の行事でも、彼女らはアイドル同然の厚遇を受けて街を闊歩し、少女たちの憧れの的となっていました。

 

鎖国下の日本において、長崎は独占的に海外貿易の利益を享受していたとされています。しかし、当時の長崎に暮らす人々はそれほど良い生活を送っていたわけではなく、唐人、オランダ人がもたらす貴重な品々を手に入れる術はほとんど無かったと言われています。そこで欠かせなかったのが、彼らの相手をすることで、その品々を報賞やチップの代わりとして手に入れる、丸山遊女の存在でした。やがては貿易をせず、丸山遊廓に行くためだけに中国から足を運ぶような者まで現れ、多くの銀銭を長崎に落として去っていきました。

 

現在の長崎には、明治維新後の芸娼妓解放令、20世紀の売春防止法の施行を経て、かつての丸山遊廓の面影は一切残されていません。しかし、江戸とは違う独自の繁栄を遂げた街並みと、地域の密接なコミュニティを大事にする人々は未だ健在です。

山本太郎著『感染症と文明──共生への道』いつだって感染症と戦ってきた人類。今が特別変なわけでもない。

今回紹介する新書

レビュー

人類ははるか昔から「感染症」との戦いを続けてきました。そのルーツは一体どこにあるのでしょうか。本著は、世界史上における感染症と人類の抗争を振り返り、ヒトがどのように感染症と付き合ってきたか、また、今後どのように付き合っていくべきかを考察していきます。

 

階層間の交流を禁止することで感染症流行を予防したカースト制度、ペストによって領土復活の夢を打ち砕かれたユスティニアヌス、領土・交通網とともに未知の感染症をアジアに広めたモンゴル、そのほとんどが旧大陸から持ち込まれたペストによって亡くなったアメリカ先住民、ヨーロッパ人による植民地化を難航させたアフリカの感染症群──。世界史を揺るがした大事件には、いつも感染症が関わっていました。

 

しかし医療技術が進んだ20世紀以降、かつて猛威を振るった感染症の一部は、完全に撲滅することに成功しています。そのため将来的には、病原菌を徹底的に排除し「感染症のない社会」を作り出すことも可能になるかもしれません。

 

しかし筆者は、それは感染症に対する最善策ではないと語っています。その理由は、ある感染症の撲滅が、さらに恐ろしい感染症流行の契機になるかもしれないからです。

 

本書の初版は2011年6月です。あの「東日本大震災」の直後に書かれた今作は、想定外の事態を招く相手に対して如何に妥協点を見出し、共生を図っていくかを特に強調しています。

刊行から約10年が経っていますが、全く古さは感じませんでした。「新型コロナウイルス」と戦う2022年を生きる私たちに、感染症への向き合い方を考えるヒントを与えてくれる1冊です。

自己紹介と新書推しの理由。

自己紹介

初めまして!風麗(フレイ)と申します。

普段はTwitterで読了ツイートを垂れ流している大学一年生です。

この度読書ブログを開設することにいたしました。

 

ブログ開設のワケ

「読書ブログなんてもうありふれているのに今更何で?」と思われる方もいるかもしれません。


確かにブログ界には、既に素晴らしい書評・読書ブログを何年も綴っている方がたくさんいらっしゃいます。

 

私自身も、数々のブログを拝見して、これまで読みたい本をたくさん見つけてきました。

 

 

 

 

でもそういうのを見てて一つ思ったんです。

 

 

 

 

 

「読書ブログって、ほとんど小説のレビューしか無くない?」

 

 

 

 

 

 

と。

 

一般的に「読書愛好家」と言われる方々は、実は「小説愛好家」である場合がほとんどなんじゃないかと。Twitterの読書垢でつながっている方々も、小説についてのツイートが多いように思います。

 

 

 

「失礼な!小説以外の本も読んでるわ!」

 

 

と言う方もいるでしょう。しかしそんな方でも、一番読んでる本のジャンルは何かと聞かれれば、「小説です」と答えるのではないでしょうか。

 

 

私は読書歴が長くなく、単純な冊数で比べればほとんどの読書家よりも読書経験は浅いと思っています。

 

しかし一番読んできた本のジャンルは、小説ではなく新書です。

 

新書とは?

まず、新書の説明を簡単に。

 

当然ですが新書 は「新しい書物」ってことではありません!!笑

 

「新書」は、「文庫」「単行本」などど同じく、本の形式の呼び方です。B6より若干小型で、文庫本より縦長の大きさをしています。イメージとしては漫画の単行本に近いですね。

 

 内容は学術的なものが多く、皆さんが高校の国語で読んだ「現代文」「評論文」と呼ばれていたものを想像していただけると良いと思います。

 

 

 

このように説明すると

 

 

「難しそう...」

「だから新書は敬遠してるんだよな」

 

 

 

と言う方が多いでしょう。

 

しかし新書は、手軽に教養を身につけるのに最適な本だと私は考えています。

 

というのも新書の著者というのは、大半が有名大学の教授であり、その学問分野のスペシャリストばかりが揃っています。

 

彼らは通常、自分の研究成果をいわゆる論文に発表していますが、日常生活で私たちが目にすることはまずないでしょう。大学でレポートでも書かない限り、わざわざ自主的に論文を検索して読む人などどれくらいいるでしょうか。

 

つまりせっかく素晴らしい発明をしても、その成果が難解な論文に書かれていれば、

 

 

「う~ん。つまり何がすごいんだ?????」

 

 

とならざるを得ません。凄さが伝わらないのです。

 

研究者にとっても、よく分からない研究をしている人と思われるのは悲しいことでしょう。

 

 

 

 

そこで登場するのが新書です。

 

新書は自分の研究結果や思想を、前提知識が少ない一般人にも分かりやすく伝えることを目的として書かれています(たまに難解な新書というものもありますが…)。

 

つまり、その道のスペシャリストが何年もかけて培ってきた研究の賜物が、たった一冊にまとめてあるのです。新書の最後のページに載っている膨大な参考文献を見ると、「こんなものが1000円弱で読めていいのか!」と驚きます。

 

薄い割に情報量が多く、ためになる本ばかりが揃っている新書。わざわざ紙とペンを持って勉強しなくとも、手軽に教養が身につけられます。

 

 

まとめ

ということで私の読書ブログでは、扱う本を新書に絞って書いていこうと思っています(たまに文庫や単行本が登場するかもしれませんが少しぐらい許してください...笑)。

 

 

既に小説好きの皆さんが新書に手を取るきっかけになるような記事を書いていきますので、これからよろしくお願いします。