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渡辺正峰著『脳の意識 機械の意識──脳神経科学の挑戦』ただの電気回路から生み出される意識。脳神経科学が抱える長年の謎に迫る。

今回紹介する新書

レビュー

意識の謎に迫る、脳神経科学の"今"を綴る1冊。

 

「人間に意識が宿る」というのは、恐らく多くの人が正しいと考えているでしょう。では、「石ころに意識が宿る」というのはどうでしょうか?これを正しいと考えるのは少数派かもしれません。最近では人間の発話に反応して受け答えをするロボットが登場していますが、彼らには意識が宿っているのでしょうか。「俺には意識がある!」と声高に主張するロボットに対して、私たちは意識の存在を認めるでしょうか。

 

私たちの脳の中を覗いてみると、そこに意識をもたらしていると考えられるものは一切存在しません。どれだけ調べてみても、そこではニューロンの発火しか観測できません。クリックの言葉を借りれば、ただの「ニューロンの塊」から、なぜか意識が生成されているような状態です。では、意識が人間にはあって、石ころにはないと主張するのは、一体何の差なのでしょうか。

 

極論、意識が宿っていることがわかるのは、自分自身しかいないのです。隣の人に意識があることすら、直接的に確認する術はありません。例えば赤いリンゴを見た時に、それを「赤」いものであると認識することは可能です。しかし、私たちが「赤」という色を"あの色"で認識できているのは、一体何故でしょうか。私が「赤」と考える"あの色"を、隣の人が私にとっての「青」で認識している可能性も否定できません。なぜなら、感覚的に「赤」が"あの色"であると認識するようなクオリア(感覚意識体験)は、脳のどこから生じているかが分からないからです。また、商店街などでリンゴを目にした時の"あの感じ"、それを手に取った時の"あの感じ"もまたクオリアであるため、同様に脳の神経回路網から説明することは不可能だと言われています。これだけ進歩した科学が、未だに主観と客観を結びつける手段を一切持たないことは衝撃です。

 

筆者は意識の存在をアルゴリズムに求め、まずは脳の半分だけを機械に置き換えてみようか、という試みを研究しています。なぜ機械なんかに意識の有無が問題になるのか?と考える方も少なくないでしょうが、現代の私たちにとって、体の一部を機械に委ねる場面は決して珍しくはありません。機械と肉体が完全に接続される未来は、そう遠くはないはずです。

 

将来、機械の脳の移植に成功した時、私の意識は、私のままでいられるでしょうか。もし私のままでいられたなら、それは機械に意識が宿ったということになるのでしょうか。